祖父の思い出
これまでのブログの中で、中学生の時や高校に入りたての頃には、医者になりたいと思って勉強してきたことを述べてきました。しかしながら、親元を離れて、高校では寮生活をしたことから、自分を見失い、すっかり落ちこぼれてしまい、高校の1年の途中で、すでに医者になる夢を諦めざるをえませんでした。英語をはじめ、数学の成績も悲惨なものでしたし、古文、漢文では赤点の常連でもあったからです。大学では、医学部への進学は諦め、以後は農学部をはじめとする理系学部の受験に向けて勉強したのでした。
私には、幼い私のことをとても可愛がってくれた、大好きだった祖父がいました。私が小学校の高学年の時には、すでに寝たきりとなってしまい、呼びかけに対しても、あまり反応がない状態だったと記憶しています。私は医者になって、そんな祖父を手術して回復させたいと思っていました。私が医者になりたかったのは、そのためです。しかし、祖父は私が中学1年生の時に他界してしまいました。なので、高校に入学早々落ちこぼれてしまったこともあり、私が大学で医学部を目指す動機は、すでになかったのだろうと思います。
私は研究者としての修行を積みながら、結局次の研究職を見つけることができず、台湾から帰国しました。両親と暮らしていた実家の祖母が認知症になり、介護が必要となったために、無職だった私も祖母の介護を手伝い始めたことから、高齢者介護の進化遺伝学に興味を持ったことについては、著書の中でも記述しておりますが、奨学金の返済などがあったため、とにかく収入を得なければということで、実際に介護職として働きながら、高齢者介護の進化遺伝学について自分で勉強しようと思い、当時ヘルパー2級課程といわれていた介護員養成研修を受講することにしたのでした。訪問ヘルパーや特養などの施設の介護職員としてどのようなことを行うかについて、短期養成講座だったため、本当にさわりのところしか学ぶことができませんでしたが、その中で、利用者が寝たままで浴衣の着替えを行うための手順を学んだことがあります。
受講生は、実習の中でお互いに寝たきりの利用者のモデルをするために、めいめい浴衣を持ってくることになっていました。当然私も、実家にあった浴衣を持って行ったのですが、その浴衣は、私の祖父が寝たきりのまま入院していた時に、実際に身に付けていたものでした。洗濯しても、他の人の洗い物と混ざらないように、襟元かどこかに祖父の名前が書かれていました。実習の時には、他の実習生のために、祖父の浴衣を着て、寝たきりの利用者役としてベッドに横になっていたわけですが、その時私は、医者になどならなくても、祖父のために私ができたことはいっぱいあったのだなあと、しみじみと感じていました。祖父は何年も寝たきりの状態でしたから、たぶん、病気から完全に回復したいなんて微塵も感じていなかっただろうと思います。でも、子供や孫たちに、周りにいてもらいたかったんだろうなあと、今更ですがそのように感じました。祖父の病気を直したいと思って医者を目指していたわけですが、そのほかにもいろいろなルートはあったはずなのに、そこまで思い巡らすことは、中学生や高校生だった自分にはできませんでした。医者ではない私でも、祖父のためにできることはいっぱいあったのだろうと思います。それを、ヘルパー2級課程と当時言われていた介護員養成講座で悟ることができました。
病院へのお見舞いの帰りに、「また来るね」と言って祖父の手を握ったところ、意識があるのかどうかもわからなかった祖父が、ものすごい力で私の手を握って、離してくれなかったことがあります。いつも寝たように目をつぶり、意識がないように見えていた寝たきりだった祖父は、実際には、いろいろなことをちゃんと感じ取ってくれていたのではないかと考えています。祖父との経験や思い出は、私の介護観の根幹を作ってくれているのだろうと思っています。 三代